2024年07月27日(土) 「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は 自分の羊をその名で呼んで連れ出します」ヨハネ10:3
「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は 自分の羊をその名で呼んで連れ出します」ヨハネ10:3
この世からは、色々な声が聞こえ、それらは混線している。肉 からの自分の欲望の声、サタンの神から離す誘惑の声、テレ ビラジオ、新聞雑誌の世の価値観の声、そしてその中に、何よ りも最も大切な、主の御声がある。 主は羊飼いで、私たちは羊との、たとえがあるが、羊は目の前 の事しか見えない。方向音痴で、目の前の美味しい草をあさって いる内に、すぐ迷子になる。自分が、どこにいるかわからない。私 たちも羊のごとく、迷いやすい者だ。目の前の美味しいものに、祈 りもせず、よく考えず、すぐ食いついてしまう。 そして、それは自らの欲望と合致しているので、なかなか気づけ ない。自分が興味が無く、利得の無い話には惹かれないが、物 質的、精神的に、利得になる話は受け入れてしまう。美味しい話 に釣られてしまう。自分が中心で、自分の損得で判断するので、 道に迷い込んでしまう。そこでまず祈りがあり、神中心なら、主の 御心は?主の判断は?が基準になるので、霊的に守られる。 自分に心地良い、都合良い声だけを聞くなら、痛い、厳しい、い さめる声は聞きたくない。拒んでしまう。主は甘い言葉で、釣られ るのでなく、はっきりと語られる。「自分の十字架を負って、わた しについて来ない者は、弟子になることはできない」。だが主の御 声を聞き分ける羊は、主について行く。主の羊は、主の御声が わかる。どんなに痛くとも、愛の御声であるのでわかる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主からの罪の指摘や、弱さの照らし、矯正してくれる御声は、なか なか素直に聞きにくい。弱さは認めたくないし、罪を認めるのは非 常に痛い。しかし愛の御声を受け取れるよう祈ろう。又、巧妙に主 から離そうと、今、悪魔が来ていないか、気づけるように。