2024年10月27日(日)

「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことば をそこで混乱させたから」創世記11:8


よく知られているバベルの塔の箇所だ。最初、全地は一つ言葉だ
った。そのため互いに、自由に意思疎通ができた。人々はシヌアル
に平地を見つけ、定住した。彼らは、石の変わりに、れんがを作り、
粘土の変わりに、瀝青を作った。しかし、それらは神による技術で
あった。建造物を作ることができたが、それは、神からの知恵と
恵みであった。

対話ができ、交流でき、肥沃な地に住み、祝福されていた。しかし、
「そのうちに彼らは」「天に届く塔を建て、名をあげよう」と言い出し
た。「神のようになろう」とした、アダムとエバと同じだ。主の恵み
に感謝し、へりくだって、主に栄光を帰するのではなく、その逆で、
自分の名をあげ、自分の栄光、名誉、賞賛、「自分」が神の位置
に取って変わった。

神に与えられた能力を、自分の栄光のために使い、「自分が、自
分の、自分を・・」、これがアダムからの罪そのものだ。そして「生
めよ。増えよ。地に満ちよ」との主の御心に反し、散らされないよ
うにしようと。「そのうちに」とあり、最初は良かったのだが、段々
と、向きが狂って来た。そこに主が介入された。言葉を混乱させ、
意思疎通を不能にした。

その結果、塔建築が不可能になり、「彼らは建てるのを止めた」。
主が阻止された。そして人々は全地に散らされた。原因は「高慢」
であった。私たちもどうだろう。言葉が通じず、気持ちが通じない
時、そこに「自分、自分、自分」という「高慢」がないだろうか。まず
御前にへりくだり、肉を退ける時に、そこには御霊の一致がある。

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罪の性質、肉は、自分の思い通りに生きたい。誰にも干渉されたく
ない。支配したい。自我であり、自分が神だ。主は、思い通りになら
ない事を与えて、私たちを砕いて下さる。練り、きよめ、造り変えて
下さる。思い通りにならない事の中に、主からのメッセージがある。