2025年04月26日(土)

「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、 マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを 食べた」出エジプト16:35



イスラエルは、モーセに導かれ、出エジプト時に、目の前
で紅海が分かれるという、主の偉大な奇跡を見た。後に
も先にも無い、驚くべき輝かしい奇跡だ。民は大歓声で、ど
んなに喜びの叫びだったろう。しかしそれも束の間、荒野に
入った途端、水が無い、食べ物が無いと、不平不満噴出
で、モーセに食ってかかる。

さっき主の全能の力を見たばかりで、その主が共におられ
るのだ。信じておれば良いだろうと思うが、しかし民の姿は
自分の姿だろうか。自分に都合良く、順調に行っている間
だけの感謝で、ちょっと状況が厳しくなると、不平不満、愚
痴、恨み事が出て来る。感謝も恵みも吹っ飛んで、更には
主をも責め始める。

その後は、「どうして荒野になど連れて来たのか」「飢え死に
させるためか」「エジプトにいた方が良かった」「エジプトに帰
ろう」とまで言い出す始末だ。何が問題なのだろう。常に自
分を中心に、物事を見ていて、自分軸で世界が回っている
ので、「自分の思い」「自分の感情」が第一になる。そして
「自分の損得」で動く。厳しい状況になった時に、主はどう思
われてるのか、主のお心は、御言葉は何と言うか。

ここが大事だ。「自分は」〜でなく、「主は」〜に、主語を置き
換えて、神視点に立つ時、見方が変わる。主を仰ぐ事で心が
落ち着き、我に返る。主は善い方で、愛して下さっていて、最
善をして下さることに目が向き、信仰を働かせて行ける。主は
荒野の間、毎日マナを降らせ、うずらを与えて下さった。今、
自分軸になっていないだろうか。主の言葉に目を向けよう。

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つぶやきや不満で、いっぱいになる時、肉の、生まれつきの
自分にいる。自分軸になる途端、主を見失う。主に目を転じ
る時、我に返る。御霊の助けのもと、御言葉は大きな力が
ある。御言葉を思い起こそう。