2005年02月23日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)

礼拝が無益であることがあるのだろうか。アモス書には、宮で暴虐を重ねており、神はその偽善を憎まれた。不敬虔なまま何の感覚も無いまま平然と礼拝するなら、その礼拝は無益だ。神の喜ばれる礼拝は、罪を悔い、御前に心からの悔い改めを献げる砕かれた心だ。神の最も喜ばれる態度は「ごめんなさい」だ。決してかろしめられず、たましいの砕かれた者を救われる。自己中心で、神ではなく自分の欲望を求める生活に気づきを与えられ、自分を明け渡して行く事が真の礼拝だ。一週間毎の聖日礼拝で、心砕かれる事なく、罪を悔い改める事なく、毎週何も変わらず帰っているか。あの宮で祈ったパリサイ人のようか。その自分に気づく事から始まる。罪を悔い改め、赦され、新たにされ、きよめられて一週間を始め、又、今日の一日を始めるなら何という恵みだろう。
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神が見られるのは、心の態度だ。神を求めるより、どこまでも自分を求める自己中心を悲しむ心だ。神と向き合う時、高慢で自己中心な醜い自分が見えて来る。あわれんで下さいと求める事ができる。神は砕かれた心を喜んで受け入れて下さる。