2006年04月26日(水) 『ピラトは言った「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ」』マタイ27:22
『ピラトは言った「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ」』マタイ27:22
主が憎まれたのは、人々の罪を指摘し たからだ。罪を指摘しないなら、迫害 を受ける事はない。主はユダヤ人の欺 瞞を暴き、間違いを示した。罪を悔い 改め、神の救いを受けるようにだ。し かし、彼らはどこまでも自分は正しい 人間であり正しい信仰者であり、罪は 無いと言い張った。救いの必要性など 無かった。人は良い人だと言われてい る限り問題は起こらない。しかし、主 は明確に彼らの罪を指摘されたので、 彼らは主を憎んだ。憎悪はエスカレー トして行った。ピラトは、主が無実で ある事はわかっていて、釈放しようと した。しかし、暴動をチラつかせ脅さ れた。彼は正しい事はしたいと思った が、自分の地位や将来を犠牲にしてま でその気は無かった。私達はどうだろ う。ピラトのように自己保身で知らん 顔、主を十字架につけるだろうか。そ んな私達をこそ、愛し抜かれた、主の 十字架を覚えよう。 ・・・・・・・・・・・ 二つの側から主を十字架につける。優柔 不断と保身によって。もう一つは「自分 が正しい」に立って。自我は神や御言葉 まで身によろい、自己を主張する。どち らも自分の内にある。それを十字架の愛 がおおう。