2007年09月26日(水)

「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:2

安息日に弟子達が麦畑を通りがけに穂
を摘んだと、パリサイ人から非難を受
けた後、主が安息日に会堂に入られた
時のことだ。そこに片手のなえた人が
いた。パリサイ人の視線は、片手のな
えた人にじっと注がれた。しかし、そ
れは主を訴えるためであった。何と冷
ややかな心だろう。手のなえた人を、
主を弾劾し、自分達を正当化するため
の手段としてしか見ない。一片の同情
もなく、その手のなえた人が癒された
みわざを見ても、何の感動もなく、主
を殺す相談をするのだ。そのような態
度の原因を「イエスは怒って彼らを見
回し」「その心のかたくななのを嘆き」
と、心のかたくなさによると言われた。
彼らの心は硬化し、感覚が失せていた。
愛や憐れみや同情に無感覚になってい
た。それは主を抹殺しようとの計画に
まで発展して行く。なぜこうまで硬く
なったのか。心に生じる苦い根を抜く
事をせず、どんどんはびこらせるまま
にし、頑強なものに育ててしまった。
あなたの心にも苦い根が巣くっていな
いか。憎しみや、妬みの根は育てて行
くと、殺意へと育ち、実際、彼らは妬
みのゆえに主を十字架へと追いやった。
一方主のお心は、愛と憐れみ、同情心
で一杯であった。同じじっと見る目が
何と対極にある事だろう。主のお心を、
心として従えるよういつも祈っていよう。
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心の苦い根をそのままにしていると、そのまま
では済まず、どんどん頑なになり心が腐って
行く。その根を自分ではどうも出来ないので、
まず祈りに据えよう。祈りに置く時、光に出さ
れるので、必ず解決に導かれる。