2008年08月17日(日)

「その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる」イザヤ2:11

エデンの園での罪とは、「あなたがた
が神のようになり」との誘惑のごとく、
人は奢り高ぶって、自分を神として生
きて行く事だ。それは自分の力で生き
る事であり、自力で生きて行くのは、
自分を神の地位に置くことだ。この奢
り高ぶりから守られるには、砕かれる
しかない。人は砕かれない限り、決し
て、伏して神にあわれみを求める事は
できない。生まれつきの性質は、神無
しで、神に頼らずに、自力で生きて行
く。砕きは、神の深い愛だ。砕かれな
いままで放って置かれたなら、神を離
れて、自分を神として生きて行く。根
深い罪の性質があるからだ。人は自分
に向き合う事は決してしたくない。自
分の弱さは直視しない。放蕩息子がど
ん底に落ちぶれた時に「我に返った」
ように、神が痛みと苦しみを与えられ
る時に初めて、我に返る。神を仰ぎ見、
自らの状態を省みる。こてんぱんにく
じかれて、高慢が打ち砕かれて、初め
て神の御前にひれ伏し、神のあわれみ
に拠りすがるようになる。人の生まれ
つきの性質は高慢だ。この高慢はくじ
かれて初めて、御前にひれ伏す。これ
こそが神の愛でありあわれみだ。あな
たの過去を振り返り、この砕きを見い
出す時、そこに神の愛を再確認しよう。
痛い辛い悲しいその事が無ければ、高
慢になって、今頃滅んでいたかも知れ
ない。神の愛を受け取り直し、認め、
今一度感謝を献げよう。
・・・・・・・
砕かれない限り、高慢はどうにもなら
ない。神のようになるとのエバへの誘
惑通り、自分が神であり、罪の性質だ。
一つ一つの心裂かれる痛い事が、実は
神のあわれみであり、ご愛だ。でなけ
ればどうなっていたかわからない。