2008年09月26日(金)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71


信仰人生の中で、様々な苦しみ
に会う。それが自らの罪の結果、
招いたものであれば、蒔いたも
のを刈り取るのは当然であり、
悔い改めて刈り取るべきだ。
刈り取りを訓練とし、尚も益と
して祝福として下さる。悔い改
める時、いつも希望がある。刈
り取りは、決して甘くは無く厳
しいが、主にあって祝福とされ
る。しかし、何の罪も無いのに、
どうしてこんな事が、との突如
の苦しみも経験する。まさに心
が張り裂けんばかりだ。時に不
当な、理不尽な苦しみにも会う。
様々な苦しみに遭遇するが、そ
れは偶然なのではない。たまた
まその環境にいたからではない。
又、不運なのではない。もしそ
うなら、わけのわからない運に
ほんろうされている事になる。
そこに何の意味も目的も無い。
不運と諦めるか、自らの運命を
呪い続ける事になる。そこにあ
るのはいつ又、どうなるかわか
らない不安と恐怖だ。しかし、
私たちは、断じてそうではない。
一羽の雀さえ父のお許しなしに
、地に落ちる事はない、神の愛
の御手の中にあり、すべての事
柄に神の主権と支配を認めるも
のだ。どんなに苦しい事態であ
っても、神の支配であれば、そ
こに神の御心があり、意味があ
り、苦しみに目的がある。
その所から、ズレないよう、ブ
レないよう、視点をそこに置い
ていよう。
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信仰の目で見るなら、状況は翻
弄されるものではなく神を知っ
て行く時となる。この苦しみの
意味はなにか。教えて下さりた
い事、私のかわる所はどこか、
必ず答えを下さる。