2008年10月27日(月)

「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです」(ガラテア6:12)



「外見を良くしたい」これは肉の特徴だ。人によく見られたい。人に認められたい。
自分が評価されたい。人からの賞賛が欲しい。自分を誇りたい、自分の力を誇りたい。

肉は自分、自分、自分・・だ。それに反して、十字架の言葉は、罪を指摘する。
すべての人が罪を犯したと言い、自らの罪がえぐり出され、自分を罪人と認めなけれ
ばならない。

自分は良い人のはずであり、良い行ないを積み重ねて来た。それを根本からくつがえ
される事であり、今まで築き上げて来た人生がすべて否定される事になる。

絶対に受け入れ難い。自分は良い人間だ。人にも良い人間だと思われたい。
「外見を良くしたい」。罪人であると認める事は、それをすべて否定する事だ。
それを認めるなどプライドが許さない。

だから、十字架を語ると迫害が来る。信じるだけで救われるなど、自分のすべての行
いが否定される事になる。肉はどこまでも自分を誇りたい。認められたい。
そのため人間は本質的に十字架を嫌い、敵対する。

ある人が恵みによって生かされている喜びを証しした。弱いままでよく、頑張るので
なく弱さを誇って歩める事の喜びを。

すると、世から反発、敵対心と憎しみを受けた。自分の頑張りを否定されるからだ。
弱いままで良いとは何という恵みで、安堵だろう。
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自らの罪を認め、弱さを認める者は、弱く見えるかもしれないが、十字架の主が弱さ
のうちに満ちて下さると信じる時、どんな中でも平安と喜びに守られている。それは
この世にあって何という強い証だろうか。