2008年11月26日(水)

「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18



エルサレムを離れ、郷里へとぼとぼと引き揚げる、二人の弟子達は目がさえぎられていた。
自分たちの、かたわらを歩いておられる方が、主イエスだとはわからなかった。

なぜ、わからなかったのか。御言葉によると「信じない、心の鈍い人たち」とある。
不信仰が目をさえぎっていたと。

不信仰は目のおおいとなって、今、確かに目の前におられる主が見えない。
復活を信じない彼らは、主が死んでしまって、絶望と落胆の中にあった。

深い悲しみもあった。私達も失望の中にいる時、主が見えない。
「失望」とは主に望みを置き、期待を向けずに、主を見限ってしまう事だ。

不信仰は私達の心をふさぐ。又、「自己憐憫」は自分の殻にこもり、主を排除するので、
ただ見るのは自分だけだ。

又、「不安」も目がシャットアウトされる。思い煩いにおおわれ、心配の山ばかりが見えて、
主が見えない。

「多忙」も目の前のこなすべき事柄にだけ心が奪われ、頭も心も目先の事で一杯で、主を
認める事をさせなくする。主が目の前から消える。

今、私たちはどうだろう。かたわらの主をはっきり見て喜び楽しみ、共に歩んでいるだろうか。
目がさえぎられて見えないでいるだろうか。障害物に気づき、それを取り除こう。
主には問題なく、今もあなたのかたわらにおられる。
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目の前は世の流れ、世の価値観だから、私達は、いつも目がさえぎられる。不信仰との戦いだ。
さえぎるものが自分の中にあり、障害物を持って来るサタンを覚え、目覚めていよう。