2024年12月17日(火)

「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわってい た。彼は生まれながらの足なえた人で、歩いたことがなかった。」 使徒14:8



ルステラに、生まれつき足なえの男性がいた。生まれてから一度も
歩いた事がなかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が
丁度そこに座っていて、じっと耳を傾けていた。彼は全く歩けず、
自分の足に関して、無力で何もできなかった。いかにしても、歩く
事は不可能だ。完全無力の状態だった。自分で何もできない。だか
らこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉
にすがる事ができた。

もし自分に力があれば、さっさと何でも自分でしていたであろう。
彼にはこの言葉しかなかった。すべての望みを託して、信じて賭け
た。この言葉がすべてだった。自分が完全に無力だからこそ、そう
できた。その信仰に、主の力が働き、奇跡が起きた。かつて、ただ
の一度も歩いた事のない彼が、飛び上がり、歩き出した。

私たちも、自らの徹底無力を知る時こそが、信じる時だ。何の方策
も無く、何もどうにも出来ない。信じるしか道がない。そのどん底
の時に初めて、信仰が働く。信仰を働かせる事ができる。自分の力、
方法に頼っている限り、自分に頼っている限り、主への信仰は無い。
信仰半分、自分の力半分というのはあり得ない。

御言葉があっても、肉は必ず自分の力、方法でやって行く。そこに
信仰の入る余地がない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を明
け渡して行く事だ。それゆえ、自らの無力を知る事こそが、大きな
祝福であり、幸いだ。無力に落ち込む事など無い。むしろ、主から
の恵みだ。
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自分の知恵や力の及ばない出来事を時に主は送られる。ふり返ると
辛く苦しい時にはいつも、主の完全な守りと支え、導きを受け取っ
た。無力は主からの大きな恵みを受け取る時だ。