2009年05月26日(火)

「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27

ヨハネの弟子達は、人気が師のヨハネから主イエスに移るのを見て、嫉妬した。
妬みは誰しも持つやっかいな感情だ。

人が賞賛を得ると妬む。ライバルの成績が良いと妬み、先に出世されると強烈な
嫉妬を感じる。妬みは根深く巣くう罪だ。

主を十字架につけたのも、ユダヤ人指導者の妬みであり、カインはアベルを妬ん
で殺害し、サウルがダビデを殺そうとしたのも妬みのゆえだ。

ヨハネの弟子達も同様であった。それに答えたヨハネの言葉が、私たちへの解答
だ。「人は天から与えられなければ、受けることはできない」。

人々が主のもとへ行くのは、神の御心ゆえだと。神がそうしておられるからだと。
そして、自分はその主を証しするために来たのだと。

結婚式での主役は花嫁花婿だ。介添人は彼らより目立ってはいけない。礼儀に反
する。引き立て役だ。花婿の友人は、花婿が花嫁を迎えるのを見て喜ぶ。ヨハネ
は、皆が主イエスのもとへ行く事を喜ぶと言った。

ヨハネは主イエスがキリストだと証しをし、それが自らに与えられた使命であり
務めであると悟っていた。「あの方は盛んになり私は衰えなければならない」ヨ
ハネにはその使命こそが、天からのものであり、恵みであった。そこに満足と喜
びがあった。

自我は自分が常に主役でありたい。人の上に立ち、賞賛を得たい。しかしそこに
真の満足は無い。主が崇められる時に初めて、自分に満たしが来る。今、「自分
が」「自分が」の状態だろうか。

今一度、自らの場、与えられた分をわきまえよう。分を越えず、又、うぬぼれず、
卑下せず、自分に与えられたもので精一杯歩もう。神はそれを喜んで下さる。

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すべての良き贈り物は上から来る。又、与えられていないものもある。受けるも、
受けざるも、すべては「天から」の霊的視点にしっかり立ち、そこから決して動
かずにいよう。そこに平安と安堵と喜びがある。