2009年09月25日(金)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ヨハネ9:25



イザヤ書によると、「そのとき、盲人の目は開かれ」とあり、盲人の目が開かれる事がメシア到来のしるしだった。それゆえ、この盲人が見えるようになった事は、預言の成就であり、心開いて見るならば、主イエスこそが救い主だとわかるはずだ。

しかし、彼の目を開けたのが安息日だという事で、主を非難攻撃したパリサイ人は、その根が悪意であり、主に対するすべての事が非難材料となる。高慢で邪悪だ。自己を正当化するが、実は主への妬みであり、敵対心、憎しみだ。

盲人に問い正すが、全く聞く耳持たず、盲人は自分の身に起こった事を、あるがまま話しているに関わらず、否定し、彼を追放した。盲人は、はっきりと言った「盲目であったのに、今は見える」と。肉眼が見えるというより、霊の目が開かれて、神がわかるようになったという事だ。

パリサイ人は肉の自分の思い、自分の目で見るのみで「あの人が罪人であることを知っている」と。そういう見方である以上、何を聞いても何を見ても、正しく見ることはできない。私たちの心にも、こういった偏見は無いだろうか。
最初から決めつけて見る時、決して正しく見ることができない。盲目のままだ。自分の思いを捨て、偏見を捨てて、主に向く時、「主よ、私は信じます」に導かれる。
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まったく心を自由にして神様が見ておられるように見て行きたい。人に対しても自分に対しても思い込みをかたくなに信じていないだろうか。目が開かれますように。