2010年03月26日(金)

「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」Tテモテ1:19


信仰生活には、信仰と「正しい良心」が大切だ。信仰があっても、正しい良心を捨てるなら、信仰の破船に会うと。普通、良心とは正しいものと思うが、「正しい良心」と「邪悪な良心」がある。

神の似姿として創造された人間は、良心が与えられたが、アダムの罪ゆえ、人間の良心は暗くなり、歪んでいる。神のようになろうと木の実を食べた彼らは、自分の意志と判断で生きるようになった。それまでは、すべての判断を神に頼っていた。

人間の判断はその人の価値観により異なる。同じ事をしても、価値観により良心の呵責を感じる人と感じない人が出て来る。そして、神を意識しないなら、良心は自己中心的な感覚や自己本位の考えに陥る。

又、信仰者も、間違った良心の呵責に責め立てられる。「弱い良心」は、神は責めておられないのに、サタンのとがめを受け入れて、自分を責める。主を信じる以前の良心を「邪悪な良心」と言っている。人は肉の性質があり、自分に都合の良い事が、正しい事になってしまう。

そして「良心は麻痺する」ので、良心を無視し続けると、機能を果たさなくなり、とがめを感じなくなる。御霊と神の言葉が、私達を正しく導いてくれる。御霊の導きに敏感でいよう。「心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられた・・ですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」
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良心の基準を神の御言葉に置いてなければ、不安定で真の安定は得られない。世と人が良心の基準にならないために、朝のデボーション祈りと御言葉の時間を大切にしたい。