2010年07月26日(月)

「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」ルカ7:9


百人隊長は立場上、権威というものがわかっていた。自分の指令通りに、自分の一言で、その通りに部下は動く。それゆえ主イエスの権威を認め、来ていただくに及ばず、ただお言葉をいただけば十分だと言った。

主の主権、権威を心から認めていたからだ。私達はどうだろう。主の主権、権威を認めているだろうか。自分の思い通りに事が運んでいる時は、神を認めるのだが、自分の思い通りでないなら認めない。

「何で?自分だけが不幸で、神様はひどい、意地悪だ、なぜ?なぜ?」と、心を屈折させ、不平不満でいっぱいだ。都合の良い時だけ、神の主権を認め、都合が悪くなると認めず、手の平を返したような態度になる。これは神中心の信仰でなく、自分中心の信仰だ。

神の栄光や神の御思いに軸があるのでなく、自分の思いに、自分の都合に自分自身に軸がある。どこに軸があるかだ。自分の思いに合っている間は良いが、ズレて来ると神を非難する。私達はどうだろう。百人隊長のように、神に全主権と権威を認め、へりくだり、どうであれ神は良くして下さる、最善をして下さると信じて行けたらどんなに良いだろう。

その時、主は「このような立派な信仰は見たことがない」と言って下さる。今までの信仰生活、結果的に見て、どんなに良くして下さっただろう。中心が神でなく、自分にあることに気づく事が祝福の始まりだ。
------------
目に見えて祈りが聞かれるなら、神をいつも覚え認めるのは容易にでき、応えられなければ、神がいないかのように失望したりあきらめたりの不信仰な者が私達だ。全ては、主権者なる神の手の中から来ていると、ただ最善を信じて喜ぶことが出来ますように。