2010年08月26日(木)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14


時に、「神が愛して下さっているのに、何でこのような?」との事態が起きる。アブラハムが待ちに待って、100才にして授かった、我が子イサク。そのイサクを全焼のいけにえとして献げよとの命令を受ける。耳を疑ったかも知れない。最愛のイサク、目に入れても痛くない我が子。

それにイサクは約束の子、あなたの子孫、サラとの子供が世継ぎとなり、子孫をおびただしく増やすとの約束を受けている。イサクが死んでしまったなら、その根を断ち切ってしまったなら、神の約束はどうなる?理解に苦しんだかも知れない。「神はアブラハムを試練に会わせられた」別訳では、「神はアブラハムを試された」「テストされた」とある。

試されるとは、心の中にあるものが明らかにされることだ。彼の心の内は書かれていないが、「翌朝早く」行動した。イサクを伴い「神がお告げになった場所へ出かけて行った」。たきぎはあるが羊は無い。不思議に思ったイサクは「羊はどこにあるのですか」と尋ねた。アブラハムは「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と答えた。

自分の命であるほどのイサクを献げる事において、神がどうにかして下さる、備えて下さると信じた。「どうしてこんな事が?」の事態の時、理解はできないが、「神が、何とかして下さる」これは信仰だ、ここに立とう。
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神様は、必要なものを必ず与えて下さる。自分が必要としているものではなく神様が与えようとしているものだ。それは必ず最善で神様の栄光の現れる。試みや、誘惑が来る時、主の山にの上には備えありとの御言葉に立っていよう。