2010年11月25日(木)

「あなたがたがはわたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」ヨハネ15:3

私たちは信仰生活、何十年だろうか。主が心の中心に、生活の中心に、人生の中心におられるだろうか。行動や言動、判断の仕方、生活が、主がおられない人のようだろうか。これはどこが違うのだろう。その人に、キリストの言葉がとどまっているか、どうかによると記されている。

もし、キリストの言葉がとどまっているなら、その人の判断は、御言葉に基づいたものとなり、行動や言動も御言葉が土台となっている。そして生活を通して、価値観や発想を通して、神を現して行く。御言葉にとどまる事がなければ、自分の肉の判断であり、自分の思いであり、自分の感情で生きて行く。

自分が対応し、絶えず損得計算をして行く。神はどうかでなく、自分はどうかに基準がある。神の御心でなく、自分が好きか嫌いか、自分に都合がよいか、悪いかで判断し、物事を決定して行く。そこに聖霊を感じる事も、キリストの香りも無い。キリストの言葉が宿っていないので、喜びが無く、平安も無い。

私たちの言葉はどうだろう。その人が御言葉によって歩むなら、周囲はその人に聖霊を感じる。言葉にその人の内側が如実に現われ出る。噂話や悪口、中傷や、愚痴ばかりが出ているだろうか。神への感謝や賛美、自らの罪の悔い改め、神を崇める言葉が出るなら、御言葉にとどまっている実だ。

そして、御言葉にとどまる時、祈りが豊かに答えられて行く。「言葉がとどまるなら、何でも欲しいものを求めよ。あなたがたのために、それが叶えられる」
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神はどうかより、自分はどうかを先に考えてしまう。自分の栄光を自分らしさを周りに反映させながら生きているだけではないだろうか。御言葉を生きよう。御言葉にとどまり、自分の価値観を一つでも御言葉にかえて今日を生きよう。