2011年06月25日(土)

「彼はますます『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた」マ ルコ10:47


バルテマイは、主に向かって「わたしをあわれんでください」と叫び、周囲に阻
止されても、叫び続けた。「わたしに何をしてほしいのか」との主の問いに「目
が見えるようになる事」だと願った。そして、主が目を開けて下さると信じてい
た。そう出来ない対象に、はなから願う事などしない。それを主は「あなたの信
仰」と言われた。

当時は現代のようでなく、盲目である事は、社会生活が極めて困難で、生ける屍
のような存在だった。乞食をして、人から恵んでもらって生きる、どんなに惨め
で哀れで、どんなにプライドが傷ついた事だろう。

しかし、彼は自分の人生に神が必要である事を認め、神の憐れみが無ければ生き
て行けない、惨めで哀れな者である事を認めた。プライドを捨てて、神に「憐れ
みが欲しい」と真正面から求めた。又、大勢の人々が見ている前で求めた。プラ
イドがあれば、憐れみを乞う事などできない。

ある人は、心の底では癒されたいのに、現状の惨めさをどうしても認める事がで
きず、ずっと目をそらせていたと。プライドゆえだったと。人は、なかなか自分
が惨めであることを、認める事ができない。へりくだりがなければできない。主
は求めに応えて、バルテマイを憐れんで下さった。無条件の愛を与えて下さった。

私たちを妨げているのは、プライドだろうか。それを捨てて、主に憐れみを求め
る時、癒しが与えられる。取税人は、自らの胸をたたいて「こんな罪人の私をあ
われんでください」との祈りが聞かれ、義と認められた。

「さあ行きなさい・・」との主の言葉に、見えるようにされ、どこでも好きな所に
行けた彼は、自らの自由意志で、喜んで主について行った。

・・・・・・・・・・・・・・
どんな最悪の状況の中でも、「主よ、あわれんで下さい」が言える。最後の最後
まで、「あわれんで下さい」が残されていて、あわれみにすがる事ができる。自
分が貧しい者であることを認めて、御前に出る時、神に会う事ができる。そして
喜びに満たされる。