2011年07月26日(火)

「・・自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24     

  

アダムとエバが、神から禁じられていた、善悪の知識の木から取って食べた事により、罪が入り、その結果「あなたがたが神のようになり」の誘惑通り、自分を神とするようになった。神を捨て、神を離れ、自分の判断と自分の力によって、生きる者となった。自分の力で、成果を上げ、自分が認められたい、評価されたい。これは今もある肉の性質だ。だから肉は、自分で頑張ろうとし、自分を誇りたい。自分の栄光のために生きて行く。

又、この自我は、自分を正当化する特徴がある。自らの罪、過失、失敗を人のせいにする。決して自分の過ちを認めない。神は悔い改めの機会を与えるために、「食べたのか」と問うて下さった。しかし、アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにした。自我は人のせいにし、責任転嫁する。しかし、神の御言葉に聞き、御声に従って行く時に、そのような自分が変えられて行く。

御言葉に従う事が、自分を捨て、自分に死ぬ事だ。自分に死ぬから御言葉に従って行く。そうでなければ、自分の都合の良い時にだけ従い、都合の悪い時には従わない。「自分を捨て」の言葉など、すり抜けて行く。肉はどこまでも、「自己実現」「自己満足」・・だ。一歩〃御言葉に従う事により、自我が砕かれ、御霊の実を結んで行く。愛、喜び、平安、寛容・・、神を愛し、人を愛する者に変えられて行く。何という恵みだろう。まず、目の前に示されている御言葉に従おう。
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自分を捨てて、主の喜ばれる方へと少しずつでも歩み出そう。心に大きな平安と休息が来る。それは主の御約束だ。自分、自分と騒ぐより、静かに主について行こう。主について行くのだからその喜びや平安は決して私たちから離れない。