2011年09月25日(日)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました」Tヨハネ4:10


初めの愛とは、信じた当初の愛という意味でなく、まず神が、私たちを愛して下さった愛のことだ。私たちが、神を愛する愛ではなく、又、人を愛する愛ではない。まず初めに神だ。この順序が狂うと愛せない。愛する事がしんどくなり、重荷になる。御言葉を行なうことは、辛い重荷であり、苦痛になる。しんどいばかりで、油の切れた機械のようだ。まず受ける事が大切だ。

神を、人を愛する前に、十分に神の愛を受け取ることが必要だ。「私達は愛しています。神がまず私たちを愛して下さったから」神がまず無条件で、犠牲愛で、一方的な愛で愛して下さった。ザアカイは、虚しい、暗い満たされない心で、木にまで登って、必死に主を求めた。その時、「ザアカイ」と名を呼ばれ、「あなたの家に泊まる」と。まず罪を責められ、戒められるのでなく、罪人のザアカイを全面的に受け入れて下さった。主の無条件の愛を受けた。

その時、ザアカイに真の悔い改めが起こり、行ないとなって表れた。自分のためだけに生きて来たザアカイが、財産の半分を貧しい人に施すという、人を顧みる心が生まれた。騙し取った物も償った。愛するとは何かをする以前に、まず関係であり、主との関係だ。愛の関係、信頼関係が生じて初めて、愛の行ないへと進んで行く。
-------------
神が主の十字架により私達を愛して下さった。私達の拠って立つ所は神がまず愛して下さっていることだ。立派に生きている時も、醜く失敗する時でも変わらず愛して下さっている。この神の愛を生涯かけて知っていこう。