2011年11月25日(金)

「あなたがしらがになっても、わたしは背負う・・わたしは背負って救い出そう」イザヤ46:4


この世の宗教、人間の作った神は、人が神を背負わなくてはならない。造った者が造られた者を運ばねばならない。偶像は人間の重荷となる。重いノルマで、人は安らぎどころか苦しむ事になる。慰めや希望を与えないばかりか、支える事もできない。

しかし、主は、私達を母の胎内にいる時から担い、生まれる前から運んで下さっている。そして年老いてもずっと背負い、私達の一生の責任を負って下さる。途中でだめになったからと、背負う事を止められたりしない。すでに担って下さっている。一生涯、年老いても何の心配も無い。又、心配事をも負って下さっている。「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主」の通りだ。

そして、私達が神に委ねるという事は、神が下さる環境が、自分の思いやプランと違っても、神を信じて受け入れて行くという事だ。自分の思い通りにならない事の方が多い。しかし、人生のすべての道筋において、そこに神を認めて行く時、神が備えて下さった、導かれた道を歩んで行ける。そこには必ず平安と喜びがあり、豊かな実を結んで行く。

神の道は、しばしば自分の思いとは違う。高くて深く、思いもよらない道の事がある。意に反しつつも、それを受け入れ歩んで行く時に、神が担い、運んで下さっている事を知る。
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いらいらしている時、自分のペース、自分のやり方で何もかも背負って疲れていないだろうか。自分で自分を背負い、環境も変えながら走っているこの世と同調しないで生きよう。