2012年03月26日(月)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18 


救われた私たちは、主に従って行きたいと願う。しかし、自分の力で、主に従おうとすると、どうなるだろう。例えば、カチン!とくる事が起きると「主は柔和なお方」と、怒りをぐっと我慢し、抑え込むだろう。又、相手の言葉や態度にイライラすると、「忍耐しなければ」と、いら立ちを抑え、我慢しようとする。あちらでも、こちらでも、我慢を重ねる。

しかし、許容量を越えると、必ず爆発する。定期的に爆発しては、それまでの証しが台無しになってしまう。あなたも経験あるだろうか。我慢は、単に心に抑え込むだけなので、それが溜まると必ず大噴火する。主に従うとは、そういう事ではない。抑え込んで我慢する事ではない。それなら、表面を、取り繕うことだ。

クリスチャンである事は、フラストレーションのかたまりになってしまう。そうではなく、欲求不満を底に置いたまま、歯を食いしばって、我慢するのでなく、「我慢できません」「忍耐できません」「腹が立ちます!」と主に心のありのままを告げ、受け止められ、主から力を受けて、歩む生活だ。

まず、ありのままの自分をことごとく主に打ち明けよう。主は愛して受け止めて下さる。受け止めて下さる方がいるとは何という恵みだろう。何でも言える。その時、不思議に心平安になる。そして、御声に耳を傾けよう。主のみ思いを伝えて下さる。その御声に従おう。出来ないと正直に表明しているので、御霊が必ず助けて、働いて下さる。御霊の支配の中に置かれる。何という恵みだろう。
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信仰の薄い者であり、繰り返し失敗する者だから、主が私の手を捉え、支えて下さっている事が嬉しい。一人で頑張るなら、昨日できた事も今日には無理だ。出来ない自分を委ねる時に主からの力で歩みだせる。