2012年06月25日(月)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4



ある婦人が、どうしても赤ちゃんが欲しかった。必死に祈って〃切なる祈りを献げ続けた。どうしても欲しい、強烈な願望がどうにもならず、いつしか与え主よりも、与えて欲しいものに重きが行っていた。ある時、このまま行けば、願いさえ叶えられれば、何でもよい、偶像でも構わない、とまでなって行く事に愕然とした。主の御前にへりくだり、ひれ伏すどころか、主の恵みをもぎ取ろうとの、恐ろしい態度である自分に気づかされた。

高慢を示され、恐ろしさに震え、涙ながらに悔い改めた。その時、赦しと主からの全き平安を頂いた。主にすべて明け渡し、心平安に満ち、もう与えられずとも良いと、心の底から思えた。心が解き放たれた。しかし幸せな日々の中で、主は奇しい導きを下さり、養子の道が開かれた。大きな喜びを与えられ、主に心から感謝していると、更に驚くべきことに妊娠が与えられた。

私たちは、「何を」喜びとして、日々生活しているだろうか。人は、自分に満足を与えてくれるものを追い求める。「富」が幸せを与えてくれると思うなら、時間、労力を駆使して富を得る。「仕事」「名誉」「地位」「人からの賞賛」なら同じように、時間、労力を一途に、その事のために費やして行く。建前は「主」だが、本音は何だろう。自分の願望を第一にでなく、主を第一にして行く時、喜びが来て、主のお心にそって求めて行く。それは御心にかなった願いであり、叶えられることになる。
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自分の意のままに願い、祈り求めて自分視点の神様しか見ていないなら、いつも満たされない思いが残る。神様からの喜び、幸い、満足は自分の満足とは無関係だ。強固な願いを手放せることから祈ってみよう。