2012年07月26日(木)

「神よ。私を探り・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:24


ある人が、成育歴の中で父親とのあつれきがあり、父親を憎んでいた。確かに様々な理由があった。父親のせいであり、父親が悪いとしか思えなかった。どうしても赦すことができず、憎しみは増幅するばかりで、苦しくて〃たまらなかった。苦しみの余り、主のもとに行き、心の内を洗いざらい告げて、告白した。

その時に、御霊に教えられた。確かに父親に問題があり、父親によって多くの傷を受け、辛い思いをした。しかし、それは父親自身の罪なのであり、「赦さないこと」「憎んでいること」「恨んでいること」は、どれだけ言い訳しても自分の罪なのだと。父親が悪いとしか見えなくて、父親が悪いから自分はこんなに辛く苦しい。そうでなく、自分が憎しみ、恨みという罪を、主に対して犯しているから苦しいのだと。

自分の罪が全く見えなかった。相手のせいとしか思えないので、解決がなく、悶々状態であった。相手に関係無く、自分の罪を罪として認めて悔い改めた。その時、心の中の苦しみが消えて行った。自分の罪が赦された喜びを経験し、平安に包まれた。

しばしば、相手に確かに非がある時に、どう見ても相手が悪いとしか見えない。相手のせいで、自分は辛くて苦しいのだと。しかし、平安が無い状態は、自分の心の問題だ。自分と主との関係が問題であり、相手は関係がない。主との間で平安が無いということだ。罪が妨げている。悔い改める時、平安が戻る。御霊は信仰の歩みを矯正しながら、御心の道へと導いて下さる。
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相手に非があると思うからこそ自分の罪に気づかず憎み、恨みの罪は光に現れない。相手を見ず、自分自身の罪を悔い改め、心が相手を攻撃して行きそうな時、主に助けを祈ろう。