2012年09月25日(火)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9 


ダビデはバテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を犯したが、自らは王であり、トップだ。その罪を隠ぺいした。人々の目からは、うまく隠せても、心に欺きがある時、まず自分の心に喜びと平安が失せ、気力も無くなり、重苦しく、心に「死」がしのびよる。自分の罪を見たくないので、言い訳や弁解に終始し、自分を正当化しようとする。罪を隠し、口をぬぐい、何もなかったかのように繕うのは、罪の性質だ。

罪を隠すために嘘をつく。そして、一度嘘をつくと、その嘘を隠すために、更に嘘を重ねる。最初は、嘘だと認識していたはずが、段々、何が真実であったのか、自分でもわからなくなる。どれが嘘で、どれが真実かがわからない。こうなると、聖霊の御声もわからなくなる。ダビデも、罪を隠そうとするほど、主の御手が重くのしかかって来た。苦しい葛藤の中で、「骨髄は、夏のひでりで乾ききった」。

そんな中、ナタンによって罪を指摘され、自らの罪を告白した。その瞬間、罪が赦された。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し」、ダビデが直接的に罪を犯したのは、バテシバとウリヤだった。しかし、それは神に対して犯した罪だと。その罪を悔い改める時、全き赦しを与えられるとは、何という恵みだろう。罪の赦しは、罪を「認める者」に与えられる。
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人の前に罪を隠し通すことはダビデには出来ただろう。でも神の前に罪を犯しているからこそ苦しんだ。私達も日々、罪を犯しながら生きている。神の前に罪を犯したことを悲しみ、悔い、神によって赦される感謝をもって生きて行きたい。