2012年12月26日(水)

「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」マタイ1:23


御使いが、すばらしい喜びの知らせ、「あなたがたのために救い主が生まれた」と伝えた。信仰生活の中で、どういう事が救いなのだろう。病気が治ることだろうか。どんな病気でも癒されることだろうか。それは確かに救われることであり、感謝なことだ。しかし、現実生活で、病気は次から次へと経験するし、又、すべての病気が完全に治るわけでもないことも知っている。

パウロも、願いに関わらず、とげは取り去られなかった。経済的困窮の中で、必要が満たされることも救いだ。しかし、パウロは豊かさと同様に、貧しさの中にいる道も知っていた。御心なら貧しさも通される。自分の思い通りでない、苦しい状況はどうだろう。状況が無くなることが救いなのだろうか。

ある人が、親が倒れ、障がいが残り、体調も悪く、親が以前とは全くの別人に感じた。大きな強い存在だった親だけに、ショックを受け、どうして良いかもわからなかった。出来ることも無いように思えた。ひたすら主に気持ちをあるがまま打ち明け、祈りに祈った。祈り続けている中で、良くなろうと、このままであろうと、何もかもが御手の中にあり、どうであれ、最善がなされると平安に満たされた。救いとは、どんな時も、どんな状況の中でも「インマヌエル」主が私たちと共におられる、ということだ。
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すぐにはわからなくても、渦中の中で思わぬ助けが与えられたり慰め励ましで心が暖かくなっていたり。私達は孤軍奮闘しているように見えても、常に主が共にいて、どのような中でも主の恵みを受けることができる。