2013年02月23日(土) 「なぜ、あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目 の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3
「なぜ、あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目 の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3
「さばくな」と主は言われる。では、「裁判」も、いっさいの「裁 き」はいけないのだろうか。しかしそれは違う。主は、「何が正し いかを判断せよ」とも命じておられる。善悪の判断をするようにと。 又、聖なるものと汚れたものを見分け、何もかも信じるのでなく、 偽預言者を見分けよと。又、兄弟が罪を犯したなら、まず二人のと ころで責めよと、罪を正す事を命じている。主が「さばくな」と言 われたのは、御言葉の基準でなく、自分のメガネで、自分の偏見や 独断で裁いてはならないという事だ。 それは自分のメガネに合わない相手を、中傷し批判することであり、 自己中心な裁きであり、私たちも陥りやすい過ちだ。裁く相手は、 だいたい自分と同じものを持っている。自分の中の嫌な、受け入れ がたいものを相手に見る。 それが裁きや批判となる。自分の内にあるものだ。大きな丸太が目 の中にあれば、何一つ見えない。人の微少のちりなど、見えるはず がない。目にちりが入るなら、鋭い痛みがある。丸太の入った目で、 そのちりを取ろうとするなら、見えないので、逆に更に痛みをひど くする。 まず自分の丸太を取り除くことが必要だ。御霊に示されて、自らの 内側にあるものを悔い改める時、丸太が除かれる。目が見えて、相 手のちりがはっきり見える。ちりを除く助けのために用いられる。 ・・・・・・・・・・・ 人の欠点や足らない所はよく見える。しかし、自分のそれは見えな い。相手にちりを見つける、自分の目に梁があると主は言っておら れる。あるかも知れないでなく、あると。御霊の光の中で、自分の 姿をくまなく照らして頂こう。