2013年03月26日(火)

「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」創 世記22:1



約束の子イサクを与えられて、喜びと幸せの中にいたアブラハムに
最大の試練が臨んだ。最愛の子イサクを全焼のいけにえとして献げ
よというものだった。一瞬耳を疑ったかも知れない。
しかし、慣れ親しんだ愛する主の御声だ。間違うはずがない。神が
奇跡をもって与えて下さった我が子、それを取られるのだろうか。

だがイサクは約束の子であり、イサクから子孫が増え広がるはず
だ。イサクか死んでしまえば、その約束はどうなるのか?様々な思
いが脳裏を駆け巡ったろう。しかし、アブラハムは今までの信仰人
生で、神への深い信頼と確信が培われていた。

アブラハムにはわかった。これは聞き間違いではなく、確かに神の
御声であり、示しだ。「神には、人を死者の中からよみがえらせる
こともできると考えた」。アブラハムは神を信じた。それで「翌朝
早く」直ちに、彼は神に従った。

イサクと従者と共にモリヤの地に向かった。そして、イサクをいけ
にえとし、刀を振り上げほふろうとした瞬間、神は制止された。そ
こには、代わりに雄羊が備えられていた。神に従う道には、必ず
「主の山に備えがある」。

今までこの事実をどれほど経験して来た事だろう。私たちは苦しみ
に会う。しかし、そんな試練の中も、主の山の上には必ず備えがあ
る。この事を信じて試練を受け止めよう。今、厳しい試練の中なら、
まっ暗闇の中で信じよう。「主の山の上には備えがある」。それが
事実であることを経験して行く。

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「試練に会わせられた」とあり、主は、試練を与えると言われてい
る。痛い、苦しい事は誰しも嫌だが、そこを通って、身をもって主
を知り、主の山の上には必ず備えがあることを経験する。大きな祝
福を受けるので、後には、通って良かったと思える。