2013年06月25日(火)

「私は衰えています。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています・・いつまでですか。あなたは」詩編6:2

 

ダビデはサウル王に妬まれ憎まれ、命を狙われる。槍を投げつけられ、危機一髪の場面もあった。又、自分の実子アブシャロムからも狙われ、病にも陥り、身も心もボロボロの、非常なる苦しみを受けた。ダビデこそは、神の心にかなった人だった。信仰者になると悩みが無くなるのではない。この世の宗教は、家内安全、商売繁盛、無病息災と、問題が無いことが善だとする。

しかし、まことの神は違う。私たちには、問題は必ずやって来る。苦しいので、とにかく問題が去る事を願う。しかし、苦しみの時こそ、神が神である事を身をもって知る。ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、なすすべなく泣いて泣いて嘆いた。その嘆きをそのまま神に持って行った。苦しみの中でこそ、神との深い交わりに入れられる。「主よいつまですか、あなたは」と、ありのままの気持ちを、率直に正直に神にぶつけている。

順境の時には絶対に経験出来ない。自力で何とかしようともがき、走り回らず、心の内を、問題をすべて神に持ち出そう。自分で当たると空回りだ。ますます落ち込み、不安、恐れ、思い煩いに沈んで行く。心を注ぎ出し、気持ちを神に告げ、神に拠りすがりつこう。辛さと苦しみの中でこそ、神との近い交わりを経験する。心からの叫び、切なる願いを神は受け止めて下さる。「主は私の泣く声を聞かれた」祈りは聞かれる。
----------
ダビデでさえボロボロの弱音を主に訴えている。なんと励まされることだろう。不安や苦しみの騒がしい内なる声との会話をやめて、主と語ろう。祈れるから主の慰めも敏感に受けとることが出来る。