2013年12月26日(木)

「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました」詩編40:6


主は、ダビデが献げたいけにえも、穀物のささげ物もお喜びにはならなかった。いけにえも穀物のささげ物も、主は喜ばれず、ダビデの耳を開いて下さったとある。「耳を開く」とは、心の耳を開くということであり、「穴を開ける、掘る」と言う意味があると言われている。

ダビデの心の耳が開かれたということは、耳はあるが、ふさがっていたのであり、穴を開けられたことになる。私たちはどうだろう。主の御声が、心の耳に聞こえているだろうか。肉の思いでいっぱいだろうか。単に物理的に聞こえているだけだろうか。それとも、御言葉の頭の理解だろうか。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。

見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」。又、自分の都合の良い言葉だけ聞いて、あとは耳を閉じているだろうか。少しでも都合の悪い、自我に触れて来る言葉なら、即、心を閉じてしまう。もし、こういう状態であり、耳がふさがっているなら、何も聞こえてこない。主にありのまま、御声が聞こえません、聞く耳がありませんと向かおう。主こそが、耳を開いて下さるお方だ。正直に自分の状態を認めて、主に向かう時、必ず答えて下さり、耳を開いて下さる。
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心の内にいろんな声を聞く。罪を犯したら、ちょうどよい言い訳の声がし、主との交わり不在のままなら自己満足の信仰生活を送ってしまう。いつでも主に向かって耳を開かれた者であるだろうか。