2014年07月26日(土)

「少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、 こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」ヨハネ6: 9


主は、ご自分では、しようとしている事を決めておられた上で、ピ
リポに「どこからパンを買って来ようか」と問われた。ピリポは
「200デナリのパンでは足りない」と答えた。人間的、常識的判断
だ。手元の金額と人々の入り用を計算すると「足りません」が答え
だ。

ところがアンデレは、何か食物を持っている者はいないかと、群衆
の中を探し回った。そして小さな弁当を持っている子供を見つけ出
して連れて来た。それは五つのパンと二匹の魚であった。これは、
あるいは、主が何かして下さるのでは、と思ったのか。

「あるいは・・しかし、こんなに大勢では何になろう」主への期待と、
しかし、大勢過ぎて無理か・・の思いが行き来する状態だった。だが、
主は、このアンデレの、行き来するような信仰を用いて、この奇跡
をされた。

ここで学ぶ事ができる。「足りない」との判断、答えは、自分を軸
にした見方、視点に立っている。それを自分軸でなく、神を軸にし
た視点に変える事が必要だ。時間が無い、能力が無い、経費が無
い・・だからダメ、それはあくまでも自分の視点であって、しかし主
はどうだろう。

自分には出来ないが、主には出来ないだろうか。5つのパンと2匹
の魚、「それが何になりましょう」こんなものが何になろうと思う
だろうか。しかし、それを主の手の中に置くなら、驚くべきみわざ
をして下さる。

・・・・・・・・・・・
5つのパンと2匹の魚を、自分の手の中に置いておくなら、5つの
パンと2匹の魚で終わりだ。しかし、それを主の手の中に置くなら、
大勢の人々を満腹させるために、用いられる。どんなに小さくても
関係ない。主の手の中にあるかどうかだ。