2015年08月26日(水)

「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した」ルカ18:43



当時、目の見えない人々は、仕事など無く、道ばたに座って、道行
く人に恵んでもらわなければ生きて行けなかった。物乞いで生活を
していた。又、生活面だけでなく、神殿に入ることができず、礼拝
することもできなかった。そこにも差別があった。何重もの苦しみ
の中にいて、何の希望も無かった。目が見えなかったので、通行人
の言葉や、道ばたで話す人々の言葉に耳をそば立てていた事だろう。

そんな中、主の様々な噂を、主のみわざを耳にしていただろう。主
が通られると知るや、大声で「わたしをあわれんで下さい」と叫ん
だ。周囲の人々がたしなめても、ますます叫んだ。一生に一度のチ
ャンスだ。これを逃せば、もう機会は無い。必死で求めた。主は立
ち止まり、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた。

「目が見えるようになることです」と答えた。求めが、明確に、は
っきりとしていた。即答できた。もし、当たりを行き交う人に「何
をしてほしいのか」と聞かれたなら、目が見えるようになどと決し
て言わないだろう。「ダビデの子」「主」にはそれができると、信
じたから、叫び求めた。

「あなたの信仰があなたを直したのです」と、彼はたちどころに目
が見えるようになった。主への信仰に、主が答えられた。そして、
神をあがめながら、主について行った。彼の真の求めは、全身全霊
で、主を礼拝することであった。
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霊の目で主をはっきりと知れるように祈りたい。ぼやけた目で主を
見ていては、ダビデの子よと心から主を礼拝できるだろうか。見え
ていない目を認識し主よと叫び求めたい。