2015年09月25日(金)

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」マタイ6:8




「御父は、お願いする先に、必要なものをすでにご存じ」とある。
では、すでに知っておられるなら、祈らなくても良いのではないか。
これは異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返し、言葉数が多けれ
ば良し、言葉数の問題ではないとの指摘だ。祈り倒さんばかりの勢
いで、ただ言葉が多ければ勝ちなのではない。言葉数の多い順に聞
かれるのではない。

だから言葉の繰り返しは何の益も無く、無駄だ。この世の宗教と違
い、御父はすでに必要も状況も何もかもをご存じなので、知らない
相手に対するごとく、くどくど説明する必要もない。しかし、神は
次の節で「だから祈りなさい」と言われた。ご存じだから祈る必要
がないのでなく「祈りなさい」と。

言葉数が多い少ないの問題でなく、御父とは信頼関係であり、愛の
関係だから、祈りは御父との交わりだ。子供に「一生涯すべての必
要を完璧に保障するから、いっさい語るな」と言う親はいない。親
は子供の語る言葉を聞き、いつも対話したい。親は子供を愛してい
るので、喜びで楽しみであるからだ。御父は交わりを待っておられ
る。

又、神は必要をご存じだが、私たちが自分で自分を知らない。真に
必要な物をわかっておらず、的はずれに求めていて、気づかない。
自分の栄光、欲のために求めてわかっていない。神はそれらを軌道
修正し、導き、自分自身を変えて下さる。それは祈りの実践の中で
のみ可能だ。
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神が知っておられる最善のものを、祈りながら知って行きたい。自
分の願いを祈りの中で御父に差し出しながら、御心が最善だと絶対
的な信頼で祈りを終えられるのは、なんと幸いか。