2015年10月26日(月) 「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20
「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20
弟息子は、父のもとを去り、放縦を自由とはき違え、放蕩三昧をし た。財産を使い果たした後、困窮し、戻って来た。父はこの息子を 「死んでいたのが生き返り」と言ったが、家出前、父のそばにいた 時から死んでいた。父との関係はしゃ断されていた。父はどんな時 も決して変わる事なく、弟息子を愛し続けていたが、弟息子の心は 父から離れ切っていた。 父には、それがわかっていたので、息子の望むようにさせた。息子 は糸の切れた凧のように、気ままに、好き放題をし、行き着く所ま で行った。身を滅ぼし、どん底で我に返った。このままでは死んで しまうと、父のもとへ帰る決心をした。私たちもどうだろう。御父 のもとを離れて、自分の思いで、欲望に生きてしまう。罪を犯すと、 なかなかすぐに帰れない。 どの面下げて帰ればよいのか。誰しもが、少しましになってから帰 ろうと思う。しかし、父は何を喜ばれるのか。息子が帰ったことだ。 「祝おうではないか」、父は、息子が帰ることをひたすら待ち、待 ち続け、見つけるや、父の方から走り寄って、抱き口づけした。父 は待ち続けている。 強制的に連れ戻すのではなく、説教を垂れる事もなく、ただ待たれ る。愛は自発的、自由意志だ。自由が無ければ、愛ではない。自ら 帰るのを、ただ待たれる。私たちは何度も離れてしまう。しかし、 私たちの弱さをご存じだ。何度でも立ち返ろう。御父は待っておら れる。 ------------ 御父は一方的な愛で待っていてくださる。失敗し落ち込むたびに、 もう少しましになって、わざや善行を磨いてからと思うが、御神を 離れては何も出来ないことを知る。すぐに帰ろう。