2016年11月25日(金)

「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます」詩篇86:15


ある人が、対人関係で、ちょっとした事でひっかかり、議論からけ
んかになった。自分は正しいとしか思えず、納得が行かず、腹立た
しくて仕方がない。気まずく、互いに相手を避けるようになった。
考えるほど怒りが湧き、裁く思いが強くなる。相手が間違っている
としか思えない。

しかし、教会学校の奉仕の準備を始めようとすると、心が乱れてい
て、とてもこんな状態で出来ない。平安も全くない。どうしようも
なく、あるがままの気持ちを祈って行った。自分は正しく、相手が
悪いと思っていること、腹立ちがおさまらないこと、相手を裁いて
いるし、責めていること、心の内をことごとく告げて、静まってい
た。その時に、主の十字架が浮かんで来た。

完全に正しい方が、自分の代わりに罪となって下さった。神のあり
方を捨てられ、ご自分を無にして仕えられ、どこまでもへりくだら
れた。自分と言えば、自分、自分しかない自我の姿、愛など全く無
い自分が映し出され、心から悔い改めた。そして電話で相手にも謝
った。和解の喜びが来て、心に平安が戻り、奉仕の準備のために祈
ることができた。

主のあわれみを心に感じ、祈りつつ準備していると、どうしても、
次の教会学校に新しい子供が来ると思えて仕方がなかった。すると
本当に次の日曜に新しい子供が来て、自分が主のあわれみに包まれ
た。主はあわれみ深いお方だ。
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不完全な自分を知らされて主の前に行くとき、十字架のあわれみが
臨んで来る。素直に罪を認められることも主のあわれみだ。落ち込
みからあわれみを受けた者として立ち上がらされる。