2016年12月26日(月)

「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった」マタイ11:17


だいたい私たちが相手を裁くのは、つまりは相手が自分の思い通り
でないからだと言われている。自分の思いがあり、それが通らない
から相手を裁き、非難する。つまりは自己中心によるものだ。主は、
当時の人々を、遊びをしている子ども達に例えられた。

子ども達は、一緒に遊ぼうと他の子達に「呼びかけ」た。まず「結
婚式」の遊びをし、楽しげに笛を吹いたが、誰も踊らず、相手にし
なかった。それで次に「葬式」の遊びをした。これにも誰も乗って
こなかった。同様に当時の人々は、悔い改めのバプテスマを授けて
いるヨハネが、荒野でいなごと野蜜で生活していると「悪霊につか
れている」と言った。

そして、主が取税人や遊女の友となり、罪人と宴会の席についてい
ると、「食いしんぼうの大酒飲み」だと言い「罪人の仲間」だと言
った。結局、何をしても批判し非難した。つまりは、自分たちの思
いがあるばかりで、自分の正しさを誇っていた。相手を正しく見て、
受け入れようとの思いなどみじんも無かった。

その時に主は、「知恵の正しいことは、その行ないが証明します」
と言われた。必ず主の正しさは、その行ないによって証明されて行
くと。そして「そのすべての子どもたちが証明します」と。クリス
チャンたちが証明して行くと。私たちが悔い改めて、御言葉を聞き、
自分の思いでなく、御言葉に従って行く時に、私たちを通して、主
の正しさが証明されて行く。
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人の思いはどうであっても、昨日も今日も常に変わらない主に導か
れて生きるなら、私達も変わらぬ光となり闇の世で光を放てる。
内側を主に正されながら輝こう。