2017年03月26日(日) 「彼らの心中の驚きは非常なものであった・・その心は堅く閉じてい たからである」マルコ6:51
「彼らの心中の驚きは非常なものであった・・その心は堅く閉じてい たからである」マルコ6:51
弟子たちは、主から舟に乗せられ、こぎ出でた。すると真夜中に激 しい嵐に見舞われ、悪戦苦闘していた。その時、湖上を歩いて来ら れた主を「幽霊だと思い、叫び声をあげた」「みなイエスを見てお びえてしまった」。主を幽霊だと思った。なぜ、主を幽霊だと思っ たのだろう。「その心は堅く閉じていたから」とある。 心が閉じていたので、主を見ても、主だとわからなかった。心の問 題であった。なぜなら、まず、主が湖の上を歩くなどと、思いもよ らない事だった。「彼らの心中の驚きは非常なものであった」。な ぜ、そう思ったのか。弟子たちは、主は偉い先生だが、人間だとし か思っていなかった。 「パンのことから悟るところがなく」すぐ前にあった五千人の給食 の奇跡だ。その奇跡から何を悟るべきだったのか。主が、人となら れた神であるということだった。しかし主が神だとは理解できなか った。主を正しく認識していなければ、助けようと来て下さっても、 受け入れる事ができない。そんな事ができると思わないからだ。 不信仰は、信仰の力を削いでしまう。主は罪を赦すと言われる。主 には出来ると信じるなら、失敗しても悔い改める時に、喜びと平安 で満たされる。だがもし信じなければ、ずっと恐れと不安の暗闇の 中だ。心が閉じているだろうか。今日も共に歩み、愛し、御声をか け、助けようとして下さっている主に、心を開いて行くことが大切 だ。 ・・・・・・・・・・・ まず主を信じられない自分、信じようとしていない自分を認める事 が大切だ。それが前に進む鍵だ。そして助けを求める時に、御霊の 助けにより信仰が与えられる。すべての面で、自分の内に「無い」 事を認めて行く時に初めて、上から与えられる事を経験して行く。