2018年04月25日(水)

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16


二人の弟子たちが郷里に向かっていた。主が十字架で死んでしまい、
落胆と絶望で、話し合ったり、論じ合ったりしながら、歩いていた。
復活を信じない彼らは、「暗い顔つき」だった。そこに主が現われ、
彼らのかたわらを歩かれた。しかし彼らには主だとわからない。目
がさえぎられていた。

何を話しているのかと問われ、主に向かって「イエスのことです」
と言う。面白い光景だ。女たちが墓に行くが、御使いがイエスは生
きておられると告げた、と言うのですと。まるで復活は他人事だ。
無関係の傍観者的態度だ。主は、その彼らに「信じない、心の鈍い
人たち」と、「ふたりの目がさえぎられている」原因は不信仰だと
指摘された。

「イエスご自身が近づかれ」たのは、そんな彼らに信仰を与えるた
めであった。主は御言葉を語られた。十字架の死の意味を復活の事
を説き明かされた。弟子たちはその時、不思議だが心が内に燃えて
来るのを感じた。そして御言葉に耳を傾けて行った時に、信仰がよ
みがえって来た。別れ道に来た時に、主に一緒に泊まるよう切に願
った。

その食卓で、主が目を開いて下さり、主だとわかった。不信仰にな
ってトボトボと失意で故郷に帰る弟子達に、主の方から近づき、ご
自身を現わし信仰をよみがえられせて下さった。不信仰を信仰に変
えられた。今日もよみがえりの主が私たちのかたわらを歩き、信仰
を助けて下さっている。
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不信仰の目で見るなら落ち込む失敗も、信仰の目で見るなら全く別
の意味に変わる。主に与えられたいのちは信仰によって豊にされる。
喜べない日も主に差し出そう。主は助けてくださる。