2021年08月26日(木)

「しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた」詩篇106:13


主は、私たちの「求め」を喜んで下さる。「求めなさい」と言われ、
「そうすれば受けるのです」と。そして与えられた時に「喜びが満
ち満ちる」と。沢山のものを与えられているが、祈って答えられる
と、それは別物で、格別に嬉しい。天地を支配される主の主が、私
の祈りに答えて下さったという事だからだ。喜びが満ちる。

個人的に主との交わりが深められて行き、主を知って行く。だから
「求めよ」と。しかしイスラエルは「激しい欲望にかられて、神を
試みた」とある。民は、欲望にかられて、欲望のままに、わがまま
に求めた。主のお心や、主の栄光は無く、ただただ欲にかられた。
すると主はそのわがままに願うところのものを与えられたのだ。

どうしても〃と、何があっても欲求するものを、主はある時、与え
られる。しかし願うところを得たが、心は満たされず、更に虚しく
なった。「神は欲しがるものを与えられたが、彼らの心を空虚にさ
れた」と。本当に自分が願っていたものでは無かったと気づく。与
えられて、心が満ち満ちるのと何という差だろう。

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの願いをかなえてくださる」
とある。肉の欲望にかられて求めるのでなく、まず主を求めて行く
時に、「あなたの願いをかなえてくださる」と。主を求めて行く時
に、主の願いと、自分の願いが合致して行く。そしてその願いは叶
えられる。どんなに嬉しい事だろう。喜びが満ち満ちる。
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与えられたものではなく、与え主なる主を喜ぼう。御心にかなって
渡された祈りの答えは、何よりも嬉しく主への感謝に満ち溢れる。
そしてノーの答えも同じく感謝して受けとりたい。