2024年02月24日(土)

「道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、 葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその 木に『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』 と言われた」マタイ21:19



当時、道ばたの野生いちじくは自由に食べていた。主が、いち
じくを食べようとすると、葉のほかには何もなく、実がなか
った。「いちじくのなる季節では無かった」ので、当然と言
えば当然なのだが、一つの実も無かった。いちじくは。イス
ラエルの象徴だった。

エレミヤ書でも「この良いいちじくのように、わたしは・・良
いものにしようと思う」「わたしは、良くするために彼らに
目をかけ」と。立ち返るようにと、熱い愛を注がれたのに、
「葉のほかに何もない」と、ユダヤ人への嘆きだった。指導者
たちが、メシヤを受け入れない事への警告で、さばきであった。

細かい儀式は、きっちり行なうが、その心は神から遠く離れて
いる。形式はあるが中身がない。「葉」ばかりがおい茂って、
「実」がない。祈りの家が強盗の巣になっている。イスラエル
の現実であり、生きた信仰がない事実を教えようとされた。そ
して「神を信じなさい」と、信じるなら、山もが動くと。生き
た、実を結ぶ信仰について語られた。

山は不動のものであり、動くわけがない。しかし、主を信じ、
祈りが聞かれると信じて行く時、私たちの不可能と思っている、
絶対に無理、どうにもならないと思っている、その目の前の山
が動くと。あなたの山は何だろう。又、その時に「赦さない心」
が妨げとなる。赦さない心があるなら実を結ぶことができない。
赦すべき相手があれば、御霊に助けて頂こう。取り扱い、導い
て行って下さる。
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葉っぱばかりが生い茂るような者だが、主は、実を結ばせよう
と絶えず導いて下さり、様々な事柄の中で、信仰を成長させよ
う〃として下さっている。日々に経験するところだ。あわれみ
の主の取り扱いに、あずかって行こう。