2024年08月26日(月)

「・・彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人と その妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」 創世記3:8


私たちは罪を犯した時に、どうだろう。本能的に、主の御顔を避け
てしまうだろうか。合わせる顔が無いと、隠れてしまうだろうか。
アダムとエバは、取って食べてはならないと命じられていた、善悪
の知識の木の実を食べた。それで善悪の知識が入ったがために、罪
を犯すと、主に顔向けできないことを知った。そのため、主を避け
て、遠ざかる。

そして御顔を避けて、主から離れ、逃げると、正しい判断、思考が
出来なくなる。そんな彼らに、主は御声をかけられた。「あなたは、
どこにいるのか」と。全知なる主は、彼らがどこにいるのかご存じ
だ。しかし、彼らのために、問いかけられた。罪を犯したり、失敗
すると、どうしても主を避けてしまう。善悪の知識により、自分で
まずいと判断するからだ。

しかし、御子の十字架の血潮による贖いがある。そして、恐れなく、
大胆に恵みの御座に近づくことができる。まさしく、私たちの罪の
ための十字架だ。「あなたは、どこにいるのか」は、主が私たちを
裁くため、責めるための問いではない。全面的に赦すため、主に立
ち返らせるためのものだ。「あなたは・・木から食べたのか」と、主
は問われた。

「はい、食べました。ごめんなさい」と、悔い改めの機会のためだ
った。主は、どこまでも私たちを愛して下さっている。「あなたは、
どこにいるのか」もし今、主と距離があるなら、今すぐに、主のも
とに帰ろう。「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあ
わせなのです」と。
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罪を犯してしまったら遠ざかり隠れようとするが、それが見当違い
であることに気づきたい。主は「あなたは、どこにいるのか」とあ
われみ声をかけてくださるお方だ。自己判断せず御声に従いたい。