2006年05月25日(木)

「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14



主人は、早朝雇った人々と
1デナリの約束をした。だ
から主人は正当であり、雇
い人は正当に契約通り報酬
を得た。9時以降の人々は
「相当のものを上げる」と
言われていて、主人は1デ
ナリと約束していない。
それで最後の1時間の人も
1デナリを貰った時、早朝
の人々は不満と怒りが爆発
した。なぜ良かったねと喜
んでやれなかったのか。
彼らにはこの労働が嫌で苦
痛であったからだ。「一日
中、労苦と焼けるような暑
さを辛抱した」と。しかし、
仕事が無かったところに、
働けたのだから、それは感
謝な事であったはずだ。
労苦と暑さがあったであろ
うが、仕事が与えられてい
る恵みという観点が全く無
かった。私達はどうだろう。
実は主のために働ける事自
体が、大きな恵みで喜びで
あるのに、しんどい労苦に
なっていないか。恵みを忘
れると何もかもが狂って来
る。奉仕を献げる事ができ
るのは大きな恵みで幸せだ。
今一度奉仕の際の態度を主
に探って頂き「この恵みの
中にしっかりと立って」い
よう。
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毎日、主のために働けると
いう幸せが、当たり前にな
り習慣になるなら不幸だ。
一つの奉仕の働きは私たち
自身の祝福のために選んで
下さったのであり大切な主
との交わりの時と覚えよう。