2008年04月23日(水)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください」詩篇139:23

人から言葉を発せられ、自分の反応を
考える時、もし、クメール語で罵倒さ
れ、批判され、きつい言葉を言われた
らどうだろう。クメール語がわかる人
は別だが、普通、何を言っているのか
わからず、何も感じない。怒りが生じ
るだろうか?生じようがない。という
事は、母国語で発せられた場合は、自
分が反応するから、怒りが生じるとい
う事になる。相手がどうのでなく、あ
くまでも、反応している自分の問題と
いう事になる。怒りが湧く、傷つく、
なぜその言葉に自分の心が反応するの
か、心の内にあるものを見極めてみよ
う。普通、人は自分に関係の無い事に
腹を立てる事も、傷つく事もない。何
かが潜むから反応している。プライド
に触れるのか、決して認めたくない劣
等感か。隠しておきたい弱さに触れの
か、心の何かに反応している。その誰
にも見られたくない、自分の本当の姿
を、光に出す時変えられる。平安にさ
れる。自らの弱さ、醜さ、汚さ、劣等
感を認める時、本音の部分が、ありの
まま受け入れられている事がわかる。
神が受け入れて下さっているなら、何
を恐れよう。「全き愛は恐れを締め出
す」自分を隠すのは、人を恐れるから。
こんな自分が、受けれられるはずがな
いと。しかし、神に完全に愛されてい
る事を知る時、恐れから自由にされる。
反応する自分の心に目を留めてみよう。
・・・・・・・・・
全き愛で愛されている。醜さも、汚さ
も、そんな事は全部わかった上で愛し
て下さっている。何ものも神の愛から
私たちを引き離す事はできない。あり
のままの心の奥底を主に告げよう。自
由にされて行く。