2008年06月25日(水)

「ただ、私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14

主人と早朝の者は報酬をきちんと約束してい
る。1日1デナリは通常の額だ。契約を交わ
し、納得して働いた。ところが不平不満で一
杯だ。それは、自分達はもっと多く貰えると
思ったからだ。しかし、ちゃんと約束が履行
されて、主人に落ち度は何も無い。責めら
れるべき点も無い。約束はきちんと果たされ
ている。自分達よりも楽をし、しんどい目を
していない者が同額である事が不服で腹立た
しい。自分が中心に位置する損得勘定であり
「妬ましく思われる」のかと言っている。私
達はどうだろう。早朝の労務者に自分を重ね
て、そうだと、同調するだろうか。それは自
らの価値観を表わしている。「妬ましく思
う」心だ。1時間で1デナリなら、自分は1
2デナリのはず。仕える動機はどうだろう。
祝福だけを求めて、仕えているならそうかも
知れない。どれだけ見返りがあったかになる。
しかし、主に喜んで頂くために仕えるなら、
主のために働ける事、仕える事自体が喜びで
はないだろうか。働く力、体力、働きの場、
すべてが、実は神から与えられている。それ
を忘れると、自分の働き、自分の功績、自分
の力を誇るようになる。自分が最後の1時間
の労務者ならどうだろう。神の愛と憐れみ慈
しみにどれだけ感謝してもし尽くせない。こ
れは天の御国の事を言っており、御国は、こ
の世の価値観と全く異なる。「あとの者が先
に、先の者があとに」取税人や遊女が先に神
の国に入り、神の国は知恵ある者でなく幼子
たちのものと言われた。
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神の御国は、愛とあわれみが支配し満ち満ち
ている所だ。もし主に仕える事が不満で喜び
が無いなら、動機と態度を点検してみよう。
実はこんなに、考えられないほどの「気前のい
い」溢れるあわれみに、包まれているのだか
ら。