2008年11月25日(火)

「だから、施しをするときには・・自分の前でラッパを吹いてはいけません・・彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」マタイ6:2


主は「忌まわしいものだ。偽善の律法学者・・」「おまえたち蛇ども、まむしのすえども
・・ゲヘナの刑罰をどうしのがれることができよう」と強い調子で告げておられる。

主はどんな罪をも赦し、罪人の友となられ、愛された。しかし、徹底的に「偽善」を憎まれた。
施しや祈り、断食について、人に見せるために、人からの賞賛を得るために、善行をしている
のであれば、「彼らはすでに自分の報いを受け取っている」と言われた。

人からの賞賛で心が満ちたりて、地上での人からの報いを受けて、十分満足だと思っている。
天の報い、神からの報いなど求めていないと。

つまり、神を見ておらず、神を求めておらず、見ているのは天ではなく、この地上であり、
関心事は、地上の事だけであり、人の目、人からの評価だけだということだ。

人から認められ、評価を受ける事ができるなら、それで良い。それで充分、これが偽善だと
言っている。

偽善とは実際より良く見せようというのではなく、神ではなく、人の評価に生きることだ。
それを止めれば良いのだがそれができない。

まず、神でなく人の評価を求めて、生きている自分を認め、悔い改めよう。
主が私のために命を捨てて下さった、それが主の私への評価であり、何があってもそこに立ち
続ける事だ。
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主が命を捨てるほどに、私を愛し、惜しまれた事、それだけで十分で、それだけが感謝だ。
人からの賞賛をあてにしたり惑わされそうになった時、気づきが与えられますように。