2009年01月25日(日)

「しかしふたりの目はさえぎられて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16

              

二人の弟子が、主の死後、なすすべなく故郷に、引き揚げる途上だ。
イエスご自身が歩み寄り、かたわらを歩かれたが、二人にはそれが主だとわから
ない。
なぜ、わからなかったのか。目がさえぎられていたからだ。主は現に実際かたわ
らにおられるが、こちらの目がさえぎられると見えなくなる。

目をさえぎるものが数々ある。失望落胆、悲しみ、絶望、この世の価値観、思い
煩い、不安、多忙、ネガティブな思考、悩み問題・・これらは主を見えなくして
しまう。あなたも今、この状態に陥っているか。

そんな意気消沈し、絶望している弟子たちに、主は御言葉を語られる。彼らはど
うしてイエスだとわかったのか。

主により目が開かれたからだ。どのように目は開かれたのか。道々話して下さっ
ていた間、後で認識するのだが、御言葉を聞いていると、心が暖かくなった。
赤々と心が燃えて来た。

心に何かを感じた弟子たちは、もっと聞きたい、知りたいとの求めを持った。エ
マオの分かれ道に来た時、主に一緒に泊まるよう無理やり頼んだ。主はそのまま
行かれる予定を「求め」に応じてとどまられた。

いっしょに泊まった時、主を親しく知った。さえぎられていた目が開かれて、
同行者が主だとわかった。

今も主はかたわらにおられる。御声に耳を傾けて、心を向けて行くことだ。目を
開いて下さる。
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思い煩った途端、主が見えなくなる。思い煩いと平安が決して共存しないのは、
日々の経験だ。しかし、落ち込んで、意気消沈している、かたわらに主がおられ
る。この事をしっかり覚えよう。落胆の中からも御声に耳を傾けてみよう。