2026年03月22(日)

「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たち に対しては、イエスはこのようなたとえを話された」ルカ18:9



パリサイ人と取税人が、宮に来て祈った。パリサイ人は「神
よ」と言ったが、実は神でなく、見ているのは人であった。意
識は人にあり、人に対する自分であった。人と比べて、自分
を見る。そして自分に向かって祈った。「他の人のようでない
ことを感謝します」と。罪の基準が人による事になる。

罪は、神に対して犯すものなので、人基準なら罪認識が無い。
悪魔は、人と自分の比較へと誘導する。御霊の光のもと、
御言葉を鏡として、映し出される自分でなく、人と比べての、
自分を見せる。その罠にはまると、人より優るなら優越感、
人より劣れば劣等感となり、シーソーのように常に上下す
る。根は高ぶりだ。神の言葉でなく、人との比較で量るので、
真の罪認識に至る事がない。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真
理はわたしたちのうちにありません」。罪は無いので、罪が
赦される事がない。主に向かわない限り、罪は認識できな
い。取税人は、他者の事など思いも及ばす、主の御前に、
ただただ自分の罪が見えるだけだった。

自分の罪がわかり、くずおれた。「神さま。こんな罪人の私
をあわれんで下さい」と祈った。罪が赦されるのは、罪人だ
けだ。主は、自分を低くする者が高くされると、この取税人
は義と認められて家に帰ったと言われた。私たちはどうだ
ろう。主の言葉を鏡として、自分の姿を映し出して頂こう。

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御言葉と御霊によらなければ、罪はわからない。認識で
きない。それなら高ぶってしまう。御霊により罪を示される
ことは恵みで感謝な事だ。罪が赦されるとは、何という奇
跡だろう。