2011年01月25日(火)

「イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた」マルコ4:3


ガリラヤ湖は、すり鉢状で周囲は山に囲まれているため、突如の嵐が発生する。
この日、主は「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。その言葉に弟子達は舟を
出した。主は乗り込んだ途端、熟睡された。それほどの疲労であった。主が眠ら
れた後、突如の嵐が起こった。凄まじい突風に舟は揺れ、まさに湖上で小さな舟
は木の葉のようだ。舟は波をかぶり、水で一杯になった。今にも浸水転覆だ。

プロ漁師ですら驚き慌て、身の危険を感じ、恐怖でパニックになった。しかし、
主はと言えば、この大騒動の間中、熟睡しておられた。大嵐に微塵も動じられる
事は無かった。弟子たちは舟に主がおられるのに、恐怖でパニックだ。主がおら
れないのではなく、まさに目の前におられるのだ。

嵐に、状況に飲み込まれてしまい、主を前に置いて、尚、右往左往だ。私たちの
姿かも知れない。突如降りかかる困難に襲われると、動転し、問題に飲み込まれ
てしまう。主は言われた「信仰がないのはどうしたことです」。嵐の中で熟睡し
ておられる主と、恐怖で大混乱の弟子たちは対照的だ。

ここでの問題は何か。主は「信仰」だと言われた。「信仰」が問題だと。主は
「向こう岸へ渡ろう」と明言された。この御言葉がある以上、途上に何が起ころ
うと100%向こう岸へ渡れる。そして「黙れ、静まれ」のひと言葉で、なぎに
なった。あなたもこの状況だろうか。状況でなく、「主の言葉」に立っていよう。
「さあ、向こう岸へ渡ろう」、あなたにはどんな言葉をかけておられるだろう。
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「さあ渡ろう」と気合をいれ、主に喜ばれる歩みを今日もしようと頑張るが、肝
心な主が飛んでしまっている事がある。良い時も悪い時も生活の中で常に共に主
がいて下さる、委ねて渡ろう。