2011年05月25日(水)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテモテ6:6



私達は自分の思い通りに、自分のしたい事をして生きる事が、幸せであり、充実感があると思っている。この世の価値観はそうであり、自己実現を目指す。そのように勘違いするが、決してそうではない。貪欲は更に貪欲を生み、とどまるところを知らない。貪欲とは、決してこれで充分という事がなく、どれだけ得ても満足する事が無い。

それは欲望であり、心の問題だ。貪欲は悲惨だ。金持ちが幾ら富を得ても決して満足しないように、欲望は満たせば満たすほど、更に渇いて行く。決して満たされる事がない。生きがいを求めて駆け巡る人を見るだろう。仕事が、趣味が、人が、名誉や地位が、あれが、これが自分を満たしてくれるのではと、次々と手
をつけて行くのだが、心は決して満たされる事がない。

自分の欲望を満たそうとする人生は、満たされないどころか、ますます渇くばかりだ。問題は「自分中心」にある。神を喜ばせ、神を第一した人に、喜びが無かったという事を聞いた事がない。人は喉から手が出るほど「愛」や「喜び」や「平安」が欲しい。もし本当に喜びが欲しいなら、自分を喜ばせる事を止め、神を求
め、神の喜ばれる事を求める事だ。

そうすれば必ず自分に喜びが来る。喜びは御霊の実だ。御霊に自分を明け渡して、従って行く時に与えられる実だ。自分で獲得するのではなく、神に従う時に与えられる。
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自分を満足させるものに限りはなく、探しても見つからない。永遠に欲求は満たされない。肉の渇きを覚える時、霊も渇いていないだろか。御言葉を補充し上から来る喜び、平安を求めてみよう。