2011年07月25日(月)

「すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28  

                        
信仰人生で、「なぜ?」「どうして?」という出来事が起こる。辛い、苦しい事態に、何がどうなっているのかわからない。苦しいばかりだ。しかし、エレミヤ29:11にあるように、神は私たちに決して災いを与えられない。それは、平安と将来と希望のためのものだとある。その渦中ではわからないが、ずっと後になった時に、パズルがつながるように、神のご計画を知ることになる。

「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」とあるように、すべての出来事に、神の支配と主権がある。「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」父のお許しなしに、何一つ起こらない。

理解を越えた、わけがわからない事態に遭遇する事があるけれど、ローマ8:28の通り、すべてを益とされる。そこに神が関与して下さる。しばしば自分を中心に置き、自分が思う通りの最善と勘違いするが、そうではない。神が私たちのために思われる最善だ。つまり、自分がこうなれば良いと思う最善ではなく、神が、備えて下さっている最善だ。

それは、しばしば自分の思いと違う。又、自分の弱さや失敗があったとしても、それよりも、更に強く働く神の力と導きがあるということだ。そして、その益は、自分がどんなに滅茶苦茶でも、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」との御子のかたちへと変えて下さる「益」だ。
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訳のわからない試練に立ち向っているのではない。答えは「益となる」だ。自分の思い通りの結果に縛られず、信仰を持って神にすべてを明け渡せたなら、神が問題の中心におられる事がはっきりと見えてくる。